【文章】関西「ぼくら」のまんが年表(1966〜1983)

 関西のまんが関連の出来事を扱った年表です。
 特に着目しているのは、
 ・関西圏のまんがに関するイベント、サークルなど
 ・『COM』に始まる流れが、いかに『漫金超』に結実していくか、という流れ
 の2点です。後者は「まんが世代」という概念とも関わると考えられ、この年表で取り上げているのもこの世代が中心となった時代と言えるかもしれません。関西での出来事を中心としていますが、重要な出来事については青字で関西以外の作家、出来事も記載しました。

1966

雑誌
・11月、『まんがエリートのためのまんが専門誌 COM』(虫プロ商事)創刊。1967年1月号。(文献6-140)

1966年の12月、当時中学3年生だったぼくは、手塚治虫「火の鳥」の1シーンが表紙に描かれ、「まんがエリートのためのまんが専門誌」と表紙にうたったその雑誌を書店の店頭に見つけた日のことを、いまでもはっきりと覚えています。年末の大掃除で、大事に集めていた手塚治虫の「ジャングル大帝」の総集編を処分されてしまい、失意に暮れて自宅近くの商店街を歩いていた時、それはぼくの目に飛び込んで来たのでした。
(村上知彦による回想。文献1-485,486)


1967

グループ・作家
・「ぐら・こんの同志よ集まれ!」『COM』3月号掲載。創刊号から企画されていたアマチュア会員連盟の正式名を「ぐら・こん」に決定。「ぐら・こん」の主旨や運営方法についても発表される。(文献6-148,149)

結果的にいえばこの綱領(?)が厳密に適用されることはなく、それよりも、手塚治虫が頂点に立つ全国誌主催の「まんが同人組織」に参加できるというので、これを読んだアマチュア作家やまんがマニアが色めき立った。
 まんが創作グループや同好会などの同人サークルはすでに全国にあったものの、通信手段として固定電話か手紙、電報程度しかなかった時代である。サークルどうしの偶発的な交流しかできなかったものが、いきなり全国規模で交流でき、しかも出版社とのパイプを持って作品発表の機会を得られるとなれば、彼らにとって「ぐら・こん」がどれほど魅力的なものに見えたかは想像に難くない。
(霜月たかなか「グループ「ぐら・こん」の軌跡とまんが同人活動」)

作品
・岡田史子「太陽と骸骨のような少年」(『COM』2月号「まんが予備校」に縮小掲載)。(文献6-141)
・宮谷一彦「ねむりにつくとき」(『COM』5月号)。(文献6-141,142)


1968

イベント
・4月、東大阪市布施駅近辺で「ぐら・こん」関西支部結成集会。(文献6-152)(文献38-115)

グループ・作家
・『COM』4月号で「ぐら・こん」関西支部結成報告。初代支部長となったばばよしあきは『COM』以前から始まった創作同人グループ「作画グループ」代表でもあった。
・『COM』10月号の「ぐら・こん」に、いしいひさいちの投稿作品が掲載される。(文献49-185)

・川崎ゆきお等、「もののけ」結成。(文献1-495)

作品
・岡田史子「ガラス玉」(『COM』1月号。同作で「第1回COM新人賞」(4月号)獲得)。(文献6-141)

同人誌
・8月、会報『仲間』(ぐら・こん関西支部)創刊。(文献1-491)
・8月(文献5では9月1日)、『ぐるーぷ』(ぐら・こん関西支部)創刊号。貸本出版社である曙出版(東京)を通じ、貸本ルートにも流れた。(文献1-490)(文献5-165)(文献38-116)


1969

イベント
・3月26日(文献38では4月)、大阪市上本町の大阪府教育会館で「第1回ぐら・こん大阪大会」。約250名が参加。宮谷一彦、岡田史子らゲストとして来阪。『COM』5月号にレポート掲載。(文献6-149,152)(文献38-117)
・4月、中島隆のグループ「マンガジン」の会員募集が『COM』『ビッグコミック』に掲載。『COM』の募集を見た高宮成河が偶然近くに住んでいた中島に会いに行き、会員となる。(文献38-117)

同人誌
・7月、『ぐるーぷ』第2号。(文献38-116)


1970

イベント
・演劇「翼を燃やす天使たちの舞踏」(黒テント)関西公演。実行委員はのちの『プレイガイドジャーナル』創刊メンバーの母体となる。(文献1-497)
・11月21日、「新ぐら・こん関西支部第一回大阪集会」開催。永島慎二がゲスト参加。(文献6-150)

雑誌
・3月、『月刊プレイガイド』創刊。(文献1-497)
・11月、『月刊プレイガイド』休刊。(文献1-497)

同人誌
・12月13日、村上知彦、ミニコミ『週刊月光仮面』(月光仮面社)創刊。ミニコミそのものは入手が難しいが、『神戸青春街図(1975年版)』(有文社)に一部が再録されている(まんがに関する話題はあまりありませんが……)(文献1-501)(文献43-85)(文献58)


1971

イベント
・春、斎藤次郎、真崎守らが同年創刊したミニコミ『まんがコミュニケーション』の関西集会。村上知彦、川崎ゆきお、竹内オサム等参加(文献1に「のちに聞いたところでは」の記述があるので当時は面識はなかったものと思われる)。(文献1-502)(文献4-47)
・7月25日、「七月弍拾五日乃疲労宴」(ぐら・こん関西支部主催)。中島隆、六田登らの制作した実験アニメの上映会(関西テレビ内一室で開催)。文献38によると、文献4のこのイベントに亜庭じゅんが参加したという記述は誤りで、実際には8月の「まんがフェスティバル」で亜庭と中島は初めて顔を合わせる。(文献4-101)(文献38-119)
・7月27日、ぐら・こん支部長集会(渋谷大向区民会館)。『COM』編集部大塚豊の呼びかけで、北海道、関西、九州、山形の各支部が出席。『マンガジュマン』創刊が提案される。『マンガジュマン』の誌名は同名の北海道支部機関誌の名前から。(文献38-119,126)
・8月28日、「まんがフェスティバル」(大阪府教育会館)。虫プロの「展覧会の絵」「しずく」などの上映のほか、手塚治虫も来阪。ぐら・こん関西支部が関わる。(文献6-153)(文献38-122)

 映写の用意をしている時に、「手塚さんきてるで」と耳打ちされました。気後れして誰も応対していない、とわかって、ぼくだけでも挨拶に行かないとまずい、と急いで一階の食堂へ降りて行きました。
 「本日はどうも・・」と礼を言ったら、立ち上がられてにっこりされました。
 漫画の中に登場する手塚さんは、ちんちくりんなので、てっきり小さいと思い込んでいました。それが180近いがっちりした体形で驚きました。そうして、その笑顔を見た瞬間に、子供の笑顔だと気づき、唖然としてその顔を見つめました。こんな笑顔をする大人には勝てない、となぜかそう思いました。手塚さんには私心がない、と感じたという事だと思います。これが二十歳の時初めて見た手塚さんの印象です。
(中島隆による回想。文献38-122-123)

グループ・作家
・本年初め、中島隆、ぐら・こん関西支部長に就任。(文献38-118)
・中室好広・中島隆「新ぐら・こん関西支部よりのアピール!」(『COM』5・6月合併号)。(文献4-100)(文献20-315)

(引用者記。これまでの支部は会員同士のつながりが持てなかったとして「百人の会員がいて彼らが百人全員と顔見知りであったとしたら彼らはその中で自由に交わえるし、共に行動していくに最もふさわしい人を見つけることもそう難儀なことではないでしょう。関西支部という混屯の中から各人各様の土台を築きあげていく」ような「人と人との触れあい」を持てる場、を新しい「ぐら・こん関西支部」として構想したもの。また「ぐら・こんという機関を通して僕達の活動を社会的なものにまでにしていくことが主願(原文ママ)」との記述もある。)

具体的なとり決めは以下
●集会参加等実際的な活動に加わってくれる人をその人の承認をもってぐら・こん関西支部員とします。
●集会は第一日曜日、そして休日は極力あけておいて会員の来訪を待つことにします。
●関西の同人の間で刷られた本の販売ルートとなって(同人誌一覧表の配布を行ないます)同人誌の入手と販売を少しでも容易にしたいと思います。
★販売同人誌一覧
「LIFE」六十ページ・二百円/「季節のある風景」二十三ページ・百円/「ささやかな訪問」百八ページ・三百五十円/「おとぎばなし」五十ページ・百五十円以上/「独裁」十六ページ・百円/すべて送料共/

作品
・雑賀陽平「我らの時代 ——われらは如何にして生きるか——」(『COM』7月号。ぐら・こんコミックスクール ストーリーまんが教室 準入選)(文献31-247)
・川崎ゆきお「うらぶれ夜風」(『ガロ』10月号。デビュー作)。(文献1-495)(文献40-60)

雑誌

・『COM』5・6月合併号で、誌面のリニューアルが行われる。(文献20)

今月より内容が新しくなりました!! (文献20-表紙)

ただ、移り変わる世の中で”『COM』の使命は、すでに終わった”というささやきがきかれる今日このごろ、心機一転、私たちは一丸となって、この5・6合併号をきっかけに『COM』の再編集にとり組む覚悟を決めました。
(表紙裏。手塚治虫・石井文男「愛読者のみなさんへ」文献20-表紙裏)

・7月、『プレイガイドジャーナル』創刊。(文献1-497)(文献5-巻末年表)
・『COM』7月号、表紙の言葉が変更される。また、「ぐら・こん」読者投稿欄には5・6月合併号の方針を支持する声が掲載される一方、批判も投稿されている。(文献31)

●たのしくて おもしろい
●きみのための
●月刊コミック・マガジン
(文献31-表紙)

編集部の熱意が感じられ、うれしかった。(文献31-280)

ひとっつもおもしろかなかったでございます.(引用者略)こんなに新鮮味のないものでしょうか? (引用者略)COMはもいっかい.死になおすべきだと思います.(文献31-281)

へんしゅうこうき
☆『COM』は初心に帰るべきだ! なんて意見が殺到する今日このごろ。その原因を探究した結果、ある線に到達しました。その一ばん大きな原因は、表現方法が上がりすぎたことでしょう。むずかしいテーマや問題もやさしく表現し、”誰もが楽しめる本” ——の理想をつらぬくために、今月号より中学生対象の編集を行うことになりました。その第一号をお届けします。みなさんのご意見、ご感想をお寄せください。(石井)(文献31-283)

7月号から行われたのは対象読者年齢を下げた少年まんが誌への衣替えであり、マニアックな読者の切り捨てだった。むろんこれは編集部が望んだことではなく、逼迫した状況に陥った虫プロ商事、さらには虫プロダクションからの無理な要請の結果であっただろう。
(霜月たかなかによる回想。文献6-146)

・『COM』8月号の「ぐら・こん」読者投稿欄に、亜庭じゅんによる「新編集方針への批判」が3ページにわたり掲載される。ほかに2通掲載されたハガキも『COM』7月号を強く批判。石井編集長は編集後記で「はっきりいって、今月は後記を辞退したい気持ちです。」と述べる。(文献32-275-278)

『COM』は「まんが界のオピニオンリーダー」であるべきだ。あえていうなら、『ガロ』の都会版といっていいかもしれない。表現としてのまんがの可能性を追求する場として、かつて岡田史子を「まんが界を根底から変革する可能性をもった」と評したようなころの、宮谷一彦にやりたいことをやらせていたころの、立場をさらに徹底すべきだ。(引用者略)
『COM』はかつて新人達に、ほんとうの意味での新しさ、つまり生(仏語=ヴィ、英語=ライフ等、生活生命の意味を含めたトータリティとして)への感覚の新しさを求めたはずでした。新しい視角、それが新人への最大の要求でした。だがしかし現在は! 今や『COM』の求めるのはプロ作家ではありませんか。概成のテクニックの使いこなし方の技術! (引用者略)芥真木さんや小川茂君を除けば、みんなどこかで見たような話です。(引用者略)『COM』からたとえプロ作家が多く出ても、プロというのは、何も最高じゃないでしょう。『COM』というのは、プロ作家への花嫁学校じゃないはずでしょう。どこか狂ってやしませんか? 読者サービスってのはいったい何のことです。同人誌的とはどういうことです。そんなに一般受けが大切ですか? それほど楽しめることが重要なんですか? (引用者略)岡田史子さんも、やまだ紫さんも『COM』以外に殆ど発表の場を持っていません。それでも彼女らはプロでしょうか。プロであること、プロになることがだいじなのではないはずです。編集部のメでもいいから、秀れた作品を、新しいものを何かもった作家を見つけることがぐら・こんのレゾン・デ・トールではないでしょうか。真崎守=峠あかね氏がいたころは良かったなあ。 亜庭じゅん

・12月号で『COM』休刊(ただし、1973年の復刊など紆余曲折あり)。(文献6-147)

COMはこの12月号の次号予告に「COMの新しい夜明け」というフレーズを踊らせた後、誌面構成を一変。翌月から『COMコミックス』という誌面の、今度は青年まんが誌にリニューアルしてしまう。それはCOM単体としてとらえるなら、編集方針の転換と誌面改革に対して、読者からの支持が得られなかった結果ということになるだろう。
(霜月たかなかによる。文献6-146)

同人誌
・5月25日、『季刊ぼむ』創刊。篠原ユキオ、団士郎等による。(文献1-499)
・6月、『まんがコミュニケーション』2号「まんが村からのあいさつ」に村上知彦による「○〈拒否〉を〈加担〉する」掲載。(文献14-12)

月光仮面社西宮本社は、(引用者略)コミュニケーションへの胎動を〈集中的〉に〈組織〉しようとする貴紙の運動に対し、不安と期待の入り交った心境にならざるを得ない。それは我社が基本的には、〈表現〉によるコミューンの形成を目論みつつも、〈集中〉すること、〈組織〉することに対する拒絶反応を無意識的に引きおこしてしまうからだろう。連帯を求めつつも、それが、〈ぐらこん〉的、〈八派連合〉的中央集権ヒエラルキーに化する事を恐れる余り、孤立無援を選ぶ必要はさらさらないのだと自らにいい聞かせつつ、ぼく(たち)は〈拒否〉を〈加担〉する。


1972

グループ・作家
・川崎ゆきお等の「もののけ」を紹介する「もののけの全貌」(『月刊漫画ガロ』(青林堂)8月号)。(文献1-495)

作品
・4月、いしいひさいち『Oh! バイト君』、『日刊アルバイトパートタイマー情報』(情報センター)で連載開始。(文献21-168)

同人誌
・4月、まんがの情報誌『マンガジュマン』創刊。『COM』編集者の大塚豊、ぐら・こん関西支部長だった中島隆による。「ぐら・こん」を引き継ぐことを目指したもの。(文献4-41)(文献6-153)(文献38-126)

 大塚と中島は、『COM』から「ぐら・こん」が消える中、「ぐら・こん」らしい漫画を掲載したり「ぐら・こん」の情報共有をしたりする場として新たに『マンガジュマン』を立ち上げる。しかし、大塚は『COM』編集部を退職してほかの仕事を始めたこともあり、次第に「ぐら・こん」的活動から離れていくことになる。こうして当初『COM』とのつながりも強かった『マンガジュマン』はそのつながりを失っていった。中島は一人で『マンガジュマン』を担当することになる。(文献38)

 しかし購読者は集めてしまったし(引用者注・末期の『COM』「ぐら・こん」ページで購読者を募集していた)、ぼくがやめれば、即「ぐら・こん」は消滅してしまう。妙な責任感まで押しつけられて、やめるにやめれなくなりました。
 ぼくが『マンガジュマン』に寄稿を頼んだ高宮君も、「ぐら・こん」の消滅は理不尽だと異を唱えくれて(原文ママ)いました。それで、頼るべきはやはり気心の知れた仲間だと、大阪で編集する事に決めました。
(中島隆による回想。文献38-126-127)

・7月、『マンガジュマン』第2号。B6版16ページの付録誌があり、樹村みのりの掌編「昇平くんとさちこちゃんの夏休みの絵日記」を掲載。(文献38-128)
・中島隆「『COM』の変化と”ぐらこん”の解体について」(『プガジャ』9月号。前年12月の『COM』休刊を受けたもの)。(文献1-498)(文献66-38)

・10月、『マンガジュマン』第3号。最終号。(文献6-153)(文献38-128)
・12月1日、『空飛ぶまんが あっぷる❤︎こあ』(あっぷる新社)創刊。代表は中島隆。誌名は高宮成河の発案。プレイガイドジャーナル社の紹介もあり、書店でも販売された。『マンガジュマン』をつなぐものであったと考えられる。(文献1-498)(文献4-102)(文献5-168)(文献6-153)(文献38-128-129)


1973

グループ・作家
・村上知彦、『あっぷるこあ』同人のT氏を通じ、同誌の同人だった高宮成河と知り合う。(文献1-503)
・1月、村上知彦、初めてみねぜっとの作品を目にする。(文献64-6)

作品
・亜庭じゅん・高宮成河「薄明の現在・COMIC SITUATION NOW!  第一章 銀色の少女たち」(『空飛ぶまんが あっぷる❤︎こあ』第2号)。評論。(文献15-17)

 中島隆の『あっぷるこあ』創刊当時の回想。

 そして、亜庭じゅんさんにも参加してもらいたかったので、大学が近かった高宮君に、京都の一乗寺下がり松へ訪ねて行ってもらいました。帰ってきた高宮君が「2人で漫画評論をやるからページをくれ」と興奮してしゃべるのを見て、やっぱり、自分が行けば良かったと悔やんだのを、今も覚えています。(文献38-129)

・亜庭じゅん・高宮成河「薄明の現在・COMIC SITUATION NOW! 第二章 失速するSF」(『空飛ぶまんが あっぷる❤︎こあ』第3号)。(文献16-25)

冷静に状況を眺めれば、より高次のSF、少なくとも一定のレベルの作品を求めている読者は限られていると言える。それはSFファンかまんがファン、又はSFファンでありませんが(原文ママ)ファンであるような読者層だ。少年まんが或いは青年まんがが、新しいSFまんがの受け手を開発しようとしない限り、そのようなSFまんがは以上のような層に向けて送り出されるより、新しい飛躍の途は無いだろう。まんがファンのための雑誌としての、かつてのCOMが、そのような可能性を孕んでいたのだが、恐らくは、そのような、状況に対する”場”の意識を持ち得なかったために、COMはその役割を果たさずに崩れ去った。

同人誌
・『あっぷるこあ』創刊についての紹介(『プガジャ』1月号)。(文献1-498)
・3月1日、『空飛ぶまんが あっぷる❤︎こあ』第2号。(文献5-168)(文献6-153)(文献15)(文献38-131)
・5月、『まんがジャーナル』(2号から『漫画ジャーナル』)創刊。亜庭じゅん、高宮成河による評論誌。『あっぷるこあ』第3号には「まんが評論誌 ◎まんがジャーナル刊行のお知らせ!」という小さな広告が出ている。(文献4-105)(文献16-67)

・6月15日(文献6では7月)、『空飛ぶまんが あっぷる❤︎こあ』第3号。(文献5-168)(文献6-153)(文献16)


1974

グループ・作家
・亜庭じゅん、上京。翌年「迷宮」に参加する。(文献4-106,110,119)
・4月29日、チャンネルゼロ工房、スタート。(文献68-71には「昭和49年3月チャンネルゼロ工房創設」ともある)(文献8-30)(文献26-98)(文献68)

作品
・亜庭じゅん・高宮成河「薄明の現在・COMIC SITUATION NOW! 第三章 エネルギーの奔流」(『空飛ぶまんが あっぷる❤︎こあ』第4号)。連載は一時中断し、第四章以下のアウトラインのみが示されている。のちの『漫画新批評大系』での評論につながっていく。(文献17-47)

只云わねばならぬことはその当時、今みたいに山の如きまんが出版物が溢れてもいず、月刊ペースののんびりした時代であり、そして何よりも”劇画”やら”コミック”やらの言葉が飛び廻ってもいず、まんがは”まんが”という言葉で括り得る存在だったということだ。(引用者略)翻って考えると”まんが”という言葉に懐く感情そのもののがぼくらにとっての個有体験だと云えるだろう。具体的に云えば、「アトム」や「鉄人28号」の陰になりながらも(引用者略)生活まんが、ほのぼのまんがが、ぼくらに向かって話しかけてきていたのであり、それらすべてをひっくるめての”まんが”という語が有効性を失なわずに或る種のバランスを保って調和していた(引用者略)。気がついてみると”まんが”は何と変化したことだろう。と云うより”まんが”という語自体が現在、破産状態にある。正確に云えば言葉の持つ機能が現状に対するに働き切れなくなっている。そんな中で”まんが”という語を上記の調和を保っていた時代の感覚を根に持つものとして現在使用しょう(原文ママ)とする時、ぼくらは否応なしに、ぼくらの”まんが”を再検討しなくてはならなくなる。

同人誌
・1月15日、『空飛ぶまんが あっぷる❤︎こあ』第4号。第1期完了号。表紙は竹内オサム。(文献5-168)(文献6-153)(文献17)

・4月6日、石井寿一『Oh! バイト君 いしいひさいち作品集』(後援 株式会社情報センター)。(文献21-171)

・5月24日、『漫画ジャーナル』第2号。(文献4-101)(文献63)
・11月1日、『あらん そして彼の友だち』(チャンネルゼロ工房)。みねぜっとの表題作等掲載。チャンネルゼロ工房の「㐧一号」同人誌。また、翌年の『プガジャ』8月号に村上知彦によるまんが評が掲載される。それによると新刊書店・青泉社(大阪市北区)で村上はこの本を見つけており、当時青泉社ではミニコミも取り扱っていたようだ。(文献1-504)(文献13)(文献13-105)(文献64-6)

「チャンネルゼロ工房」という出版社をでっちあげたのも本が1冊完成しただけで満足するのではなく、資金を集め、本を作り、販売し、そしてまた、さらに良い本を作ろうと考えたからでした。そして、その㐧一号として完成したのが、この「あらんそして彼の友だち」です。しかし私達はまだ満足していません。私達の手でまだまだ良い本が作れるはずです。その本ができた時「チャンネルゼロ工房」は倒産するのです。


1975

イベント
・4月5日〜6日、「まんがファンフェスティバル’75おおさか」(手塚治虫FCと全日本マンガファン連合の主催。大阪市森ノ宮の市立労働会館会議室にて開催)。手塚治虫の登壇やまんがについての会場ティーチイン、オークション、原画展示、ファンジン即売などが行われた。実行委員長は青木治道。(文献4-112)(文献78)
・8月(文献38では9月)、中島隆の呼びかけで東京で「ぐら・こん」関連の集会開催。ぐら・こん山形メンバーや、霜月たかなか、米澤嘉博、亜庭じゅんら「迷宮」メンバー、「CPS」メンバー、各大学漫研、「跋折羅」や「奇人クラブ」同人、「まんがのむし」メンバーなどさまざまな顔ぶれが集まる。(文献6-153) (文献38-133)

 「ぐら・こん」をなんとか残したいという中島の願いで呼びかけられた会合だったが、一方で高宮をはじめ「迷宮」メンバーはすでに「「COM」とも「ぐら・こん」とも決別し、漫画とファンとの新しいフィールドを作ろう」と考えていた。そのため、「ぐら・こん」継続に賛成することはせず、ここではファンの集いのような、和気あいあいとした話し合いにとどまったという。(文献38-133)

・12月21日、「コミックマーケット」第1回。東京・虎ノ門日本消防会館にて。(文献4-10)(文献5-153)

グループ・作家
・4月20日、高宮成河、チャンネルゼロに「出現。以後住みつく」。(文献26-98)
・8月15日、村上知彦、チャンネルゼロに「登場!! 以後ヒンパンに出没する」。この2つの記述は『ぱふ』(1979年11・12月号)の「チャンネルゼロがつくった2頁」より。(文献26-98)

作品
・いしいひさいち「プガジャマン」『プガジャ』11月号から連載。翌年2月号より「御漫画」に改題。(文献1-504)(文献69-1)

同人誌
・4月1日、『空飛ぶまんが あっぷる❤︎こあ』終刊号。(文献5-168)(文献6-153)
・4月1日、いしいひさいち『Oh! バイト君』2(チャンネルゼロ工房)。(文献5-170)(文献39-105)
・いしいひさいち『Oh! バイト君』(チャンネルゼロ工房)の情報掲載(『プガジャ』6月号、フリーマーケット欄)。(文献1-504)
・7月26日(文献26では8月)、『漫画新批評大系』(迷宮’75)創刊準備号。(文献5-150)(文献26-58)
・『プガジャ』8月号に村上知彦による、みねぜっと『あらん そして彼の友だち』のまんが評「みねぜっと そして彼の友だち」掲載。(文献64-6-7)

単一党の形成は、COM時代のうたかたの夢に過ぎなかったが、それにしてもまんがファンダムは現在、あまりにも埋もれすぎている気がしてならない。(文献64-7)

・12月1日(文献26では11月1日)、『チャンネルゼロ』(チャンネルゼロ工房)創刊号。(文献1-504)(文献5-170)(文献26-98)


1976

イベント
・7月、「コスモ・オーディン共同主催 まんが祭典」。神戸市生田区公会堂にて7月24日、25日に講演や同人誌の即売会が行われたほか、7月21日から26日まで高速神戸駅地下のメトロギャラリーで原画展が行われた。チャンネルゼロ工房が24、25日の即売会に参加している。(文献59-46)

たゞ、年令的に非常に居辛かったことと、やはり女性の一般参加者が圧到的であったという印象を受けたような気がする。(引用者略)
 全体の印象としては、やゝ学芸会的で、サブタイトルにある、「漫画創作者による漫画祭典」とはいくぶん趣を異にしたようである。
(『チャンネルゼロ』第4号「巻末レポート」より。文献59-46)

グループ・作家
・鈴木哲也らによる同人誌『MOB』No.3(1月20日発行)に『チャンネルゼロ』が紹介される。(文献70)

作品
・村上知彦「アルファベットスープ」『チャンネルゼロ』第4号から連載。コラム。(文献1-504)(文献59-38-39)

同人誌
・2月10日、『チャンネルゼロ』第2号。(文献5-170)
・5月30日、『チャンネルゼロ』第3号。「当社発刊の単行本『あらんそして彼の友だち』はめでたく売切れました。」とある。(文献5-170)(文献79-42-43)
・8月15日、『チャンネルゼロ』第4号。チャンネルゼロ工房が当時拠点をかまえていた繁和荘の写真掲載。(文献5-170)(文献59。59-41)


1977

イベント
・3月21日、「まんがはうすのコミックバザール」(西宮市立勤労会館3階会議室)にて開催。コミックバザールはこのあとも第2回、第3回……と続いていく。(文献63)

まんがはうすのコミックバザール
まんがファンジン即売と、まんが古書市をするのです!
ファンジン出品
 ファントーシュ みずうみ ふしぎな仲間たち まんがのむし むしのしらせ その他
1977.3.21 西宮市立勤労会館 3階会議室 入場無料
(チラシから引用。文献63)

・12月、まんがはうすによる「竹宮恵子の世界展」。梅田・阪急ファイブのブックスファイブ駸々堂書店にて。(文献1-509)。

作品
・さべあのま「シングル・ピジョン」。『季刊チャンネルゼロ』第7号に掲載。(文献67)
・11月10日、いしいひさいち『バイトくん』(プレイガイドジャーナル社)。(文献1-506)(文献19)

雑誌
・7月10日、『別冊新評 SF——新鋭7人特集号』(新評社)で特集「まんが同人誌への招待」。当時のまんが同人誌の状況、これまでの歴史、同人誌の表紙紹介などで構成。執筆は「ぺんね・絵夢」となっており、これは「迷宮」にも協力した鈴木哲也(『MOB』主宰)と同じペンネームである。『Oh! バイトくん』が紹介される。(文献5-152-159)(文献48-148−153)

 そして,まんが専門誌「COM」の創刊(昭和41)によって㐧三期同人誌ブームが始まり,COMの”まんがにおけるあらゆる可能性を追求する”という名目と,同人誌的なCOMも又商業誌であるというバック・グラウンドこそは,プロを目指す・売れる作品を描くという常識に疑問を持ち始めたまんがファンのいわばマニアに,理論的裏付けと,既製誌とは異なった投稿・発表の場を与え,己れのためにまんが表現を行なうという思想を保証した.(引用者略)
 このようなバイブル的存在のCOMが積極的に同人誌活動を奨励し,読者即ちアマチュアまんが同人の全国的な連絡組織”ぐら こん”の設立を図ったりなどして,昭和46年に休刊するまでの間に無数のまんが同人誌が誕生し消えていき,又誕生していった訳である.

同人誌
・1月1日、いしいひさいち『Oh! バイトくん』3(チャンネルゼロ工房)。(文献5-170)(文献42)
・2月10日、『チャンネルゼロ』第5号。(文献5-170)(文献60)
・5月、漫画研究会「ZOO」発足。会報「マリンランド」第1号を発行。作品集『ZOO』第1号は11月ごろの発行で、合作パロディ「11人おりますねん!」などパロディ中心だったが2号からはオリジナル作品が主体となる。(文献76)
・8月6日(文献5では8日)、『チャンネルゼロ』第6号。編集後記に「この春から同人のほとんどが、つとめはじめました。」という一文がある。(文献5-170)(文献61)

 6号45ページ。『Oh! バイトくん』の広告掲載。
・11月1日、『チャンネルゼロ』第7号。(文献67)


1978

イベント
・1月14日から22日まで、まんがはうすによる里中満智子、庄司陽子、大和和紀の原画展。梅田・阪急ファイブの駸々堂書店にて。また、同人誌も展示された。(文献23-7)
・3月1日から13日まで、プレイガイドジャーナル主催「プガジャ・フリーマーケット・スペシャル・イベント」。心斎橋ソニータワー9階にて。まんが同人誌の即売も行われた。(文献30-24)

『プガジャ』が事務所の片隅に「フリーマーケット」と名付けて開いていたチケットやミニコミなどの委託コーナーは、まんがサークルにとっての重要な販売ルートでした。それらは、『COM』に触発されたまんがサークルの胎動に象徴される、この時代の大阪のまんがを支える大事な情報ネットワークであったといえるでしょう。
(引用者注・村上知彦による証言。文献1-500)

『プガジャ』の「フリーマーケット」は以上のようなもので、ふだんは12時から夜7時まで(日・祝は基本的にお休み)事務所での営業と郵便振替等を利用した通販を行っていた。今回はそれのイベント版。「フリーマーケット」ページには『チャンネルゼロ』や「漫画新批評大系』、『まんがのむし』などまんが関連のほか、音楽や映画、三里塚闘争に関するミニコミなど政治的なものまで、さまざまな誌名が確認できる。(文献22-94,95など)

・3月、チャンネルゼロ工房が繁和荘から江坂のマンションに移転する。(文献68-71)

・4月9日、まんが、アニメ、SFの同人誌・ファンジンの即売会の、コミックバザール第2回が開催。主催はまんがはうす。西宮市立勤労会館4階会議室にて。(文献22-7)
・5月13日から21日まで、まんがはうすによる永井豪の世界展。梅田・阪急ファイブのブックス5駸々堂にて。デビルマンの原画、アニメ資料の展示のほか、21日にはサイン会も行われた。また、同書店では同人誌の即売会も行われていた。(文献24-10)

なお、現在ブックス5では、迷宮、IF、あず、作画グループ、ピグマリオンなど、全国のまんが同人誌の即売会を開いているが、4月25日の催し期間が終った後も、コーナーを設けてまんが同人誌を扱っていくとのこと。

・6月4日から6日まで、喫茶店「愚巣」で「ZOO」と「飛行舎」(大阪経済大学漫画倶楽部)の合同カット展。「ODIN」会長や森脇真末味も訪れる。(文献74)(文献76)
・11月19日、コミックバザール第3回。まんがはうす主催。「場所を街なか心斎橋プラザビル10F(地下鉄心斎橋駅北口前)に移して」行われた。(文献27-98)

作品
・みねぜっと「あけみの日」(『チャンネルゼロ』第8号)。『プガジャ』12月号に高宮成河によるまんが評「饒舌はいつもモノローグ」掲載。また、この文章によると、この時点で『みねぜっと全集』(全6巻)が作られていたようである。(文献28-109)(文献68)

雑誌
・「特集・ぼくたちのまんが」「ファンタジーとSF」(『プガジャ』1月号)。(文献1-506)
・「特集・ぼくたちのまんが」「同人誌の血脈」(『プガジャ』3月号)。(文献1-506)(文献22-22)

同人誌というのは、ぼくたちのまんがの、最もぼくたちらしい部分だという気がします。ぼくたちにとって、まんがというのは、ぼくたちがそれを描くことも、それについて語ることも、自由自在にできるのだという意味で、まさにぼくたちのメディアであるわけですから。(引用者略)ぼくにとって、ぼくたちのまんがの始まりは、虫プロが出していた、「COM」という雑誌の「ぐらこん」という読者投稿欄でした。そこから無数の同人誌が生まれ、さまざまなまんがファンの運動がはじまりました。それらの動きは結びかつ消えては、そのまま現在にまでつながっているのだという気がします。でもいまの、もっと若い人たちにとって、そんなことはどうでもよいことなのでしょう。彼らにとって、まんがは過去でも歴史でもなく、現在そのものなのですから。そしてぼくたちにとってみても、もちろんそうあるべきなのです。(引用者略)(引用者注・作品、評論、パロディ、また巧拙あるいずれの同人誌にも)共通して、ぼくが感じるのは、ぼくたちにとってまんがとは何か、まんがに何ができるか、という、ぼくたちの問いかけなのです。そして単に与えられるだけでなく、それらの問いを、ぼくたちが身をもって確かめようとすれば、この無数の同人誌のように、いつでもどこでもそれができる、というのが、ぼくたちが、まんがを〈ぼくたちの〉という形容詞つきで呼ぶことができる、理由ではないかと思います。
(引用者注・村上知彦による特集序文)

・「特集・ぼくたちのまんが」「君は三流劇画を見たか」(『プガジャ』8月号)。(文献1-506)
・『月刊Peke』(みのり書房)創刊(9月号)。アニパロで知られる『月刊OUT』(みのり書房)の兄弟誌として創刊。さべあのまが商業誌デビューした雑誌でもあり、ニューウェーブのひとつの拠点。(文献35-27)

同人誌
・4月1日、『漫画新批評大系』第2期第2号。(文献30)
・7月15日、『チャンネルゼロ』第8号。(文献5-170)(文献68)
・「まんがかくの楽しゅうてな! インタビュー・その4 チャンネル・ゼロ工房」(同年7月29日、『漫画新批評大系』第2期第3号「特集 まんが同人誌’78 幻視の同人誌——インタビュー・まんがサークル」より)。高宮成河、社長(冨岡雄一)、みねぜっとの談話。(文献3-42)

峰(原文ママ) COMねえ、あの頃はわりと熱血少年やったからわりと、投稿しようかななんて、結局投稿せんかったけど。
高 みんな熱血少年だったという気がするよ、みんなかいてるうちにふっ切れちゃったっていうとこがきっとあると思うけどね。
社 だからその頃はマンガ中心でね、マンガ一本しかなかったと思うけど、だから興味が拡散されたのね、マンガに限らずだから小説にいったり映画にいったりあるかもしれないよね、その辺の拡散された人間が集まっているのがチャンゼロかもしれんわナ。
高 やっぱり尻っぽひきずってるわけか
峰 その上でマンガにもう一ぺんもどっていこうというとカッコウかな。
社 もどってゆくんやなくて、マンガでつながっているというのか

 彼らが、宴会を通じ、出版を通じ、ミガキをかけているセンスの共有は、我々の同人誌の内実をますものではないだろうか? そこに世代という枠があるにせよ、チャンゼロの行っているのは、「ぼくら」の絶えざる確認であり、その拡大である筈だ。さもなければ、何故に、チャンゼロが雑誌にこだわり、まんがにこだわるか。「ぼくら」が「わしら」と関西アクセントをにじませることの意味は、大きい。それは否定できない。しかし、そうした「わしら」をつくったものがまぎれもなく「まんが」でありチャンゼロの「センス」の基底にも「まんが」はある筈だ。

 『チャンネルゼロ』第8号編集後記には、インタビューの感想が「編集部」から述べられている。(文献68-83)

この前「迷宮」からインタビュウされました。馬鹿なことならいくらでもしゃべれるのに、核心にセマルようなことを、例えば「何故、漫画なのか?」などと聞かれると、ぼくらはしどろもどろになってしまうのでした。実際、何故、漫画なのでしょうか。そういう問いにぼくらがしどろもどろになってしまうことこそ、ぼくらの漫画への関わり方なのではないか、あとでそう考えました。恐らく、ぼくらは漫画に就いて情熱的であることを止したのでした。「たかが漫画ではないか。」と誰かが云います。でも、その言葉の中には、漫画への思い入れがうらはらにこめられているような、負の情熱をぼくらは感じてしまいます。ぼくらは多分、そんな風にさえも考えなかったろうと思うのです。

・7月29日、『漫画新批評大系』第2期第3号。(文献3)
・12月25日、『チャンネルゼロ』第9号。(文献5-170)(文献46-151)(文献65)


1979

グループ・作家
・6月23日、大友克洋、チャンネルゼロ来訪。同工房が借りていた吹田市垂水町のマンションを大友が訪れ、いしいひさいちをはじめとしたチャンネルゼロメンバーと会う。(文献45-142)

作品
・2月、いしいひさいち『バイトくん2 東淀川ひん民共和国』(プレイガイドジャーナル社)。(文献1-506)
・2月10日、村上知彦『黄昏通信(トワイライトタイムス) 同時代まんがのために』(ブロンズ社)。(文献18)

・3月10日、大友克洋『ショート・ピース 自選作品集1』(奇想天外社)。(文献36)
・Dirty・Birdy(引用者注・おそらく亜庭じゅん)「口先ばかりで実のない まんが批評を斬る!!」(同年7月28日、『漫画新批評大系』第2期第5号)。(文献25-86)

 まんがとは、何かが可能だと、世界へと至れるのだと知った「ぼくら」の夢だ。それは決して世代の論理ではない。「村上知彦は幸せな時代を過ごしたのだ」。(ぱふ6月号)あんたは不幸な時代を送っているという自覚があるのかい松下則之サン! 村上知彦のいう「ぼくら」は、COM世代でも全共斗世代でもない。自分がまんがにとらわれていると自覚したものたちが、同じくとらわれていると自覚した物たちの存在を予感する時たちあらわれる幻のことだ。それはまんがにどれだけの夢を背負せ得るかを自問する意志の共有であり、世代とは無縁のことだ。「黄昏通信」は、そうした意志がそれだけで自立し得た時代の終わりを告げると同時に、それでもなお、その意志を生き延びさせようとする現実的な態度表明なのである。村上知彦は、世代の共有世界の崩壊を知った上で、たとえ一人きりでも「ぼくら」を背負う気でいる。その回路こそ、まんがを読むことだ。

・8月、川崎ゆきお『猟奇王』(プレイガイドジャーナル社)。(文献1-506)

雑誌
・『月刊Peke』休刊(2月号)。(文献35-23)
・『月刊コミックアゲイン』(みのり書房)創刊(5月号)。休刊した『Peke』の「改題誌」と表紙にある。創刊号では『COM』を特集。(文献35-23)
・「特集 全国まんが同人誌地図」(『ぱふ』11・12月号)。(文献26-8,10,11)

・第三期同人誌ブーム
COMの時代(昭和41年創刊)
 雑誌「COM」ぐら・こんで全国的規ボでの同人誌を組織——同人誌をつくろう! の呼びかけで雨後のたけのこのごとく同人誌がふえた。
 ・同人誌発行の理論的裏付
『COM』の廃刊
・これよりしばらくして「COM」の亡霊を引きづった連中たちが成人しいろんな同人誌活動がはじまる
(引用者注・特集内「図解・まんが同人誌の系譜」から一部抜粋して引用。「現在」の同人誌としては「ホンのごくごく一部」として、「まんがジャーナル」「チャンネル・ゼロ」「あず」「跋折羅」「迷宮」「楽書館」「フィルム1/24」「ふしぎな仲間たち」「コスモ」「仲間」「ぱふ」が挙げられている)。

同人誌
・5月30日、『ZOO』第3号。漫画研究会ZOO発行。山田章博「人魚變生」掲載。(文献73)
・7月28日、『漫画新批評大系』第2期第5号。(文献25)
・12月1日、チャンネルゼロ工房、森むら舞の作品集『青い海のお墓』刊行。(文献71)


1980

イベント
・4月5日、「第6回コミックバザール」開催。西区民センター区民ホールにて。(文献55-84)
・8月2日、3日、「まんが・ミニ・マーケット」(MGM)第1回。亜庭じゅん関わる。(文献33-104)
・8月23日、「第7回コミックバザール」開催。西区民センター。(文献56-9)
・9月7日、「コミック・フェスティバル IN KOBE 2」。神戸市立新長田勤労市民センター大会議室。(文献56-9)
・12月21日、「コミック・フェスティバル」。神戸市青少年会館。ふだんの同人誌やSFファンジンの即売会のほか、「MACK」「BASARA」の作品原画展も行われた。(文献56-7)

グループ・作家
・1月10日、『11PM』(読売テレビ)に、ひさうちみちお、村上知彦出演。『漫金超』PRする。(文献7-200)(文献46-154)
・1月18日、村上知彦、高宮成河、峯正澄(みねぜっと)、冨岡雄一らチャンネルゼロ工房メンバーが集まり、「株式会社チャンネルゼロ」設立。(文献1-512)(文献47-125)

これは、プレイガイドジャーナル社からでていた『バイトくん』単行本の続刊を引き継いで、その売り上げを基盤に、大阪初の全国向けまんが雑誌を実現させようという目論見によるものでした。(文献1-512)

作品
・高野文子「田辺のつる」(『漫金超』創刊号)。(文献7-51-66)

雑誌
・「特集・まんが’70・年代記「漫金超」編集」(『プガジャ』2月号)。1967年から1979年までのまんがに関する出来事と主要作品の年表、図版が、村上知彦の文章「長すぎたプロローグ 70年代・起こったこと起こらなかったこと」を軸に紹介される。(文献54-71-80)

・『ホットドッグ・プレス』2月号(講談社)に、村上知彦によるいしいひさいち紹介記事「いしいひさいちは貧しさといじましさをひらきなおって大肯定しちまった男じゃ!」掲載。『漫金超』についても触れられている。(文献53-96-97)

 ところで、いしいひさいちとぼくらが作る新しいまんが雑誌のタイトルは「まんがゴールデン・スーパー・デラックス」という。これでは呼びにくかろうというので、(引用者略)「漫金超」という略称を、いしいひさいちが考えてくれた。

 「やっぱりぼくらの本を、ぼくら自身の手で作りたいということやろな。それもマイナーなものじゃなく、商業誌の形でね。それとぼく個人の考えとしては、単行本を作りたい。今までの商業ベースの中ではどうしても、型にはまった物しかでけへんかったし、作家の意見で作りたいように作らしてくれるというのはあまりなかったと思うんや。もうひとつ。あんまり、いしいひさいちの本、みたいな形で、ワシ一人がやってるみたいに宣伝すんのはまずいんとちゃうかな。編集も村上、峯、高宮と4人でやるわけやし、資金もチャンネルゼロのみんなで出しあうわけやから……」と、いしいひさいち。
 「そうはいうけど、メジャーで、しかも大阪を拠点に、何の経験もないワシらが雑誌出していくいうことは、かなりシビアに考えんとあかんのんちゃうかな。ある程度、いしいに前面に出てもらわなあかん部分も出てくると思う。とにかくワシら、大阪でやりたいんや。まんがでも何でも、全部東京中心に動いているけど、そういうのんてイビツや思うな」と、これは関大時代からのいしいの友人である峯正澄。
 「同人誌の持っている自在さというか、マニア向けやのうて一般にも通用する部分というのは絶対あるとぼくは思うわけよ。いま大出版社が発行しているメジャー雑誌自体が変質してきているし、それをとり入れていく方向に動いているんやけど、メジャーの中では生かされへん面白さもあるわけで、それやったらぼくらがメジャーになってしもてもええんとちゃうか。その方が面白いもんできるんとちゃうかと思うんよね」と、これはぼく。

「まんがゴールデン・スーパー・デラックス」は、いしいひさいちの、いやチャンネルゼロのセンス、ぼくらの生き方のスタイルをそのまま生かした、80年代を切り拓く面白まんがマガジンになりそうだ。いや断固するつもりである。乞う御期待!

・4月、『マンガ奇想天外』創刊(春号)(奇想天外社)。1978年から刊行された『別冊奇想天外SFマンガ大全集」から独立して創刊。(文献35-26)。
・5月17日、『漫金超(まんがゴールデンスーパーデラックス)』創刊(1980・春号)(チャンネルゼロ)。「4月10日発行」とあるが、実際の創刊は5月ごろで(文献44,52に詳しい)、さらに東京など各地の書店店頭に並ぶまでにはタイムラグもあった。(文献1-512,513)(文献7)(文献44-126)(文献52-143)

ごあいさつ
 文化は東漸するといわれます。結局のところそれは、文化的な芽は育まれても、実を結ばせるまでの土壌が、この関西にはなかったということかもしれません。こと出版に限ってみても、関西に地盤をもつことの難しさは現状が示すとおりです。私たちチャンネルゼロはあえてその困難に立ち向かいます。80年代へ向けて、新たな文化状況を切り開く試金石として、〈漫金超〉が多くの方々からのご支持を得られんことを願ってやみません。
冨岡雄一

・11月20日、『漫金超』第2号(1980・夏号)(チャンネルゼロ)(文献8)

同人誌
・4月1日、『ZOO』第4号。「ODIN」にいた森脇真末味が対談に「ゲスト参加」。森脇はその後「ZOO」に入会し、第5号の時点では会員となっている。(文献74)(文献75)
・5月11日、『漫画新批評大系』13号(第3期第2号)。亜庭じゅん「迷宮緊急アピール 夢の明日・明日の夢」掲載。(文献34)(文献34-2-9)

 私たちの発想の根底にあるのは、”ぐらこん”の提起した問題であることを隠す必要はあるまい。”ぐらこん”の提起したまんが状況——作家、編集者、読者が対等な場にたち、各々をその構成員として位置づけるまんが状況、それを”ぐらこん”と呼ぶ——は、現在でも有効性を失っていないばかりか、ます\/その必要を増している。
 現在のまんが状況の隆盛は、反面、まんがの危機の徹底した深化でもある。雑誌が増え、まんがの幅が広がる一方で、読者はます\/消費者の立場に追いやられている。出てくるものに満足し、受け止めることに徹し、自分たちから動きだすことを、意識の上でさえしなくなる。

 我々が生みだそうとしているのは、商品化されたまんがに対する、巨大な同人誌的状況であるといってもいい。その状況に参加する人間がわけへだてなく、自らの読みたいもの、描きたいものを求めていく場こそ、同人誌であったのだから。

 亜庭はこう述べ、一方で肥大化した現在(当時)のコミック・マーケットは、そのような、同人誌を媒介にして描き手と読み手が結合し商業誌にないまんがを創り出していく「状況」としての場ではなく、単に「場所を設定する者と、そこを利用し、楽しむ者」とが分離してしまった場になっていると批判する。亜庭は「そこに関わる人間が全て、状況の構成員であり、それぞれの場で、それぞれが意志するまんがへの行為を積み重ねていく」、そうした状況を目指し、MGM開催や『漫画新批評大系』の販路拡大をねらっていく。

・12月31日、『漫画新批評大系』14号(第3期第3号)。「激突!! 対談!! 漫金超V.S.マンガ奇想天外」掲載。(文献33)(文献33-25-27)

亜庭 それと少しからむんですが、奇想天外にしろ漫金超にしろ、最近言われるニューウェーブをメインに押し出してるように見えるんですが。ニュー・コミックって言い出したのは、確か漫金超だったよね。
村上 確かにそういうことを言い出した時期があって、それが僕達が漫金超を発想した時期とほぼ重なっていた。漫金超を発想したことの裏には絶対それがあったろうし。それが何なのかと言うと、漫金超の場合は、まんが評論というのは、可能な限り切り捨てていこう。おそらく漫金超を買えばまんが評論を読めるだろうという一部の期待を裏切ってやろうと。で、ニューコミックなり、ニューウェーブなり、新しい流れなりそういう言い方をされて来たものを、具体的な形として引き出して行きたいということなんだと思う。それは僕ら自身が編集をするという時点からそうなんだし、雑誌作りのための会社を作るという時点から含めて、ニューコミックの作品だけじゃなくて状況全体としてのまんがの在り方とはこういうもんじゃないか、ということをやりたい訳よね。

村上 (引用者略)作る側の自分自身がどうしようもなくマニア上がりだという部分があったとしても、ただそれによりかかるんではなくて、新しいまんがみたいなものを作ろうというようなところはある訳ですよ。漫金超の場合はむしろその辺でひょっとするとまんがからはみ出ちゃう部分が出てくるかもしれないってことも考えてるんですよね。多分生活領域全体をカバーするというような方向へ行くような気が、ちょっとするんですけれども。
亜庭 そこまで行ければ本当にいいですけれどもね。
村上 そうなると対抗誌はポパイと言うことになるね。

・同14号巻末「from……EDITOR ROOM」。おそらく亜庭じゅんによる文章。(文献33-112)

●およそ半年遅れでお届けする新批評大系です。(引用者略)半年間の遅れは、実は、何のためでもない。こちらがサボっていたのが、ただ1つの原因なのだ。前号の緊急アピールの威勢のよさとは裏腹に、評論を書くことに、今いちノレない状態が、約半年続いた。(引用者略)最も根本的な理由は、本誌で言う「評論」が、一体どのような行為なのか不鮮明なことである。世の中は大きく悪い方向へ動き出している。それに対して言葉を並べることが、どんな作用をなせるのか? そんな無力感と、まんが評論がぶつかっている「まんがをまんがとして語る」ための方法の未成熟が、半年間の遅滞となって現われたのだ。

 亜庭の予感をなぞるように、『漫画新批評大系』は次号の15号で休刊してしまう。

場所
・2月28日、堺市・深井駅前に、まんが専門店「わんだ〜らんど」開店。(文献1-510)(文献2-35)(文献2-カバー折り返し)


1981

雑誌
・6月10日、『漫金超』第3号(1981・春号)。(文献9)
・12月1日、『漫金超』第4号(1981・秋号)。(文献10)

同人誌
・1月15日、書店誌『わんだ〜らんど通信』(わんだ〜らんど)創刊号。(文献1-510,511)(文献2-56)
・2月14日、『ZOO』第5号。(文献75)
・12月10日、『わんだ〜らんど通信』第3号。(文献43)


1982

イベント
・8月22日から29日まで、「ライヴ! い・け・な・い・まんが一〇〇選」(心斎橋・都ファッションビル2階「きまぐれ工房」。わんだ〜らんど主催。都画廊、プレイガイドジャーナル社、チャンネルゼロ、村上知彦らが協力。まんがの販売のほか、竜巻竜次、川崎ゆきお、ひさうちみちおのサイン会が22日、28日、29日にそれぞれ行われた。(文献40-204-205)

作品
・1月19日、高野文子『高野文子作品集 絶対安全剃刀』(白泉社)。(文献37)
・1月24日、矢作俊彦・大友克洋『気分はもう戦争』(双葉社)。(文献41)

 大阪のまんが専門店「わんだ〜らんど」の1982年上半期売り上げランキング(金額)を見ると、ベスト1が『絶対』、2が『気分は』である。(文献40-106)

・2月1日、ひさうちみちお『山本さん家の場合に於るアソコの不幸に就て』(チャンネルゼロ発行、プレイガイドジャーナル社発売)。(文献51)

雑誌
・3月1日、月刊『宝島』臨時増刊号として『マンガ宝島』(JICC出版局)発行。(文献50)。村上知彦による「ニューコミック派宣言」掲載。(文献50-172-173)

★ニューウェーブからネオ・ロマンティックスへ!! (表紙の言葉)

 ぼくは今、「ニューウェーブ」について、過去形で語っている。「ニューウェーブ」という言葉で語れるものについては、もはや過ぎ去った出来事のようにぼくは感じている。青年まんがと少女まんがと同人誌の結合として始まった「ニューウェーブ」は、それが少年まんがを欠落させていたゆえに、結局はメジャー雑誌の再編過程のなかに、個々の作家が召喚されてゆくという結果を迎えており「漫金超」や「マンガ奇想天外」といった、時代を象徴する雑誌を生みはしたが、それらももはや創刊当初のようなインパクトはない。”波”は、たしかに去ったのだ。

 ”波”は去った。残されたものは何か。幾人かの作家と、向かうべき方向への確信。とりあえず控えめに、それだけを言っておこうと思う。
 大友克洋、高野文子、ひさうちみちお、宮西計三、吾妻ひでお、高橋葉介、さべあのま、柴門ふみ、近藤ようこ、高橋留美子、吉田秋生、森脇真末味、川崎ゆきお、いしいひさいち、その他何人かの作作たち(原文ママ)。彼らが示したのは、まんがは変わることができるという事実だった。それも、個々の作品ばかりではなく、誌者(原文ママ)、出版、すべてを含めた状況全体として、まだまだまんがは変わらねばならないし、未知へ向って踏みだしつづけねばならないのだ。

同人誌
・2月15日、『ZOO』第6号。(文献76)
・8月16日、『ZOO』FINISH。終刊号。(文献77)
・8月25日、『わんだ〜らんど通信』4・5合併号。「川崎ゆきお大特集」で、デビュー作「うらぶれ夜風」が再録されている。(文献40)


1983

作品
・みねぜっと・いしいひさいち「元気なき戦い」一挙掲載。(文献12-37)
・亜庭じゅん『まんが』(『漫金超』第5号。村上知彦、高宮成河とともに執筆していたまんが評のページ)(文献11-132)

 何か一言いうたびに、ドッと虚々(そらぞら)しさが襲って来る。すっかり流行り言葉になって、早くも古びつつある「ウッソー!」という高笑いを前にしては、何を言っても、それこそ嘘になるしかないのではないかと、沈み込んでいく。本屋の店先に出ては三日四日で消えていくおびただしいまんがの量に、すっかりヘキエキしている最近は、まんがのアレコレについていうこと自体が持つサカシラサに、恥ずかしささえ感じている。
 (引用者略)「何でまんがやるの?」とごく素朴にきかれれば、身も世もなく焦ってしまうにちがいない。単純明快な解答——「面白いから」は、あらかじめ排除してしまってある。その先の答を言ってしまえば、まんがから、はるか彼方へへだたってしまう。その辺があやふやだから、虚々しさもまたひときわ強まってくる。

雑誌
・7月20日、『漫金超』第5号(1983・夏号)。(文献11)

同人誌
・4月1日、『わんだ〜らんど通信』第6号。休刊号。(文献12-147)

・8月31日、『チャンネルゼロ』第10号。(文献5-170)
・9月20日、『わんだ〜らんどデータ通信1号 1983・1〜6』。売り上げデータ、評論、読者の声など掲載。(文献72)


・この年表は制作中のものであり、内容についての正確性を保証するものではありません。
・参考文献は、読んだものから年表に入れているので順番がばらばらですが気にしないよーに。また、いったん年表に書き入れたが後に削除してしまった項目など、ここに載ってはいるが年表にないというものもあるのですがとにかく気にしないよーに。ハイフンのあとがページ数です。

参考文献

1.村上知彦「補講・大阪のまんがと「ぼくらの時代」」大阪府立大学観光産業戦略研究所ほか編(2014)『再び大阪がまんが大国に甦る日』ブレーンセンター
2.南端利晴・南端裕子(1986)『遊ぶ本屋 まんが専門店わんだ〜らんどの記録』新文化通信社
3.(1978)『漫画新批評大系』(第2期第3号)迷宮’78
4.霜月たかなか(2008)『コミックマーケット創世記』朝日新聞出版
5.赤田祐一・ばるぼら(2014)『20世紀エディトリアル・オデッセイ』誠文堂新光社
6.霜月たかなか編(2011)『COM 40年目の終刊号』朝日新聞出版(霜月たかなか「COM 〜その創刊から休刊まで〜」140p-147p)(霜月たかなか「グループ「ぐら・こん」の軌跡とまんが同人活動」148p-151p)(中島隆「40年目のぐら・こん支部だより 関西支部 COMから飛び立ち『あっぷる❤︎こあ』に」152-153p)
7.(1980)『季刊まんがゴールデンスーパーデラックス「漫金超」』(1)チャンネルゼロ発行、プレイガイドジャーナル社発売
8.(1980)『漫金超』(2)チャンネルゼロ発行、プレイガイドジャーナル社発売
9.(1981)『漫金超』(3)チャンネルゼロ発行、プレイガイドジャーナル社発売
10.(1981)『漫金超』(4)チャンネルゼロ発行、プレイガイドジャーナル社発売
11.(1983)『漫金超』(5)チャンネルゼロ発行、プレイガイドジャーナル社発売
12.(1983)『わんだ〜らんど通信』(6)わんだ〜らんど
13.(1974)『あらん そして彼の友だち』チャンネルゼロ工房
14.まんがコミュニケーション編集室(1971)『まんがコミュニケーション』(2)まんがコミュニケーション編集室
15.(1973)『空飛ぶまんが あっぷる❤︎こあ』(2)あっぷる新社
16.(1973)『空飛ぶまんが あっぷる❤︎こあ』(3)あっぷる新社
17.(1974)『空飛ぶまんが あっぷる❤︎こあ』(4)あっぷる新社
18.村上知彦(1979)『黄昏通信(トワイライトタイムス) 同時代まんがのために』ブロンズ社
19.いしいひさいち『4コマまんが集 バイトくん』プレイガイドジャーナル社
20.(1971)『COM』(5・6月合併特大号。5月1日発行)虫プロ商事
21.いしいひさいち(2021)『Oh! バイト君 いしいひさいち作品集 電子書籍版』(笑)いしい商店(石井寿一(1974)『Oh! バイト君 いしいひさいち作品集』同人誌(後援・株式会社情報センター)の電子書籍版)
22.(1978)『プレイガイドジャーナル』(3月号)プレイガイドジャーナル社
23.(1978)『プレイガイドジャーナル』(1月号)プレイガイドジャーナル社
24.(1978)『プレイガイドジャーナル』(5月号)プレイガイドジャーナル社
25.(1979)『漫画新批評大系』(第2期第5号)迷宮’79
26.(1979)『まんが専門誌 ぱふ』(11・12月号)清彗社
27.(1978)『プレイガイドジャーナル』(11月号)プレイガイドジャーナル社
28.(1978)『プレイガイドジャーナル』(12月号)プレイガイドジャーナル社
29.萩尾望都(2016)『ポーの一族 復刻版』(1)小学館(萩尾望都(1974)『ポーの一族』(1)小学館の復刻版)
30.(1978)『漫画新批評大系』(第2期第2号)迷宮’78
31.(1971)『COM』(7月号)虫プロ商事
32.(1971)『COM』(8月号)虫プロ商事
33.(1980)『漫画新批評大系』(14号)(第3期第3号)迷宮’80
34.(1980)『漫画新批評大系』(13号)(第3期第2号)迷宮’80
35.新保信長編(2000)『消えたマンガ雑誌』メディアファクトリー
36.大友克洋(1979)『ショート・ピース 自選作品集1』奇想天外社
37.高野文子(1982)『高野文子作品集 絶対安全剃刀』白泉社
38.中島隆(2011)「『COM』と『あっぷる❤︎こあ』——ぐら・こん関西支部顛末記——」竹内オサム編(2011)『ビランジ』(27)竹内オサム
39.いしいひさいち(2021)『Oh! バイト君 電子書籍版』(2)(笑)いしい商店(いしいひさいち(1975)『Oh! バイト君』(2)チャンネルゼロ工房の電子書籍版)
40.(1982)『わんだ〜らんど通信』(4・5)わんだ〜らんど
41.矢作俊彦・大友克洋(1982)『気分はもう戦争』双葉社
42.いしいひさいち(2021)『Oh! バイトくん 電子書籍版』(3)(笑)いしい商店(いしいひさいち(1977)『Oh! バイトくん』(3)チャンネルゼロ工房の電子書籍版)
43.(1981)『わんだ〜らんど通信』(3)わんだ〜らんど
44.村上知彦「『漫金超』と〈ぼくら〉の時代」(1)竹内オサム編(2020)『ビランジ』(45)竹内オサム
45.村上知彦「『漫金超』と〈ぼくら〉の時代」(3)竹内オサム編(2021)『ビランジ』(47)竹内オサム
46.村上知彦「『漫金超』と〈ぼくら〉の時代」(4)竹内オサム編(2021)『ビランジ』(48)竹内オサム
47.村上知彦「『漫金超』と〈ぼくら〉の時代」(5)竹内オサム編(2022)『ビランジ』(49)竹内オサム
48.(1977)『別冊新評 SF——新鋭7人特集号』(第10巻第2号)新評社
49.(2012)『KAWADE夢ムック 文藝別冊 総特集いしいひさいち 仁義なきお笑い』河出書房新社
50.(1982)『マンガ宝島』JICC出版局
51.ひさうちみちお(1982)『山本さん家の場合に於るアソコの不幸に就て』チャンネルゼロ発行、プレイガイドジャーナル社発売
52.村上知彦「『漫金超』と〈ぼくら〉の時代」(2)竹内オサム編(2020)『ビランジ』(46)竹内オサム
53.村上知彦「’80年代新型人間カタログ いしいひさいちは貧しさといじましさをひらきなおって大肯定しちまった男じゃ!」(1980)『ホットドッグ・プレス』(2月号)講談社
54.(1980)『プレイガイドジャーナル』(2月号)プレイガイドジャーナル社
55.(1980)『プレイガイドジャーナル』(4月号)プレイガイドジャーナル社
56.(1980)『プレイガイドジャーナル』(8月号)プレイガイドジャーナル社
57.(1980)『プレイガイドジャーナル』(12月号)プレイガイドジャーナル社
58.プレイガイドジャーナル編(1975)『神戸青春街図』有文社
59.(1976)『季刊チャンネルゼロ』(’76 Summer。第4号)チャンネルゼロ工房
60.(1977)『季刊チャンネルゼロ』(’77 Winter。第5号)チャンネルゼロ工房
61.(1977)『季刊チャンネルゼロ』(’77 Summer。第6号)チャンネルゼロ工房
62.(1975)『プレイガイドジャーナル』(12月号)プレイガイドジャーナル社
63.(2022)京都国際マンガミュージアムで開催された「村上知彦コレクション」ミニ展示での展示・資料から。2022年10月22日来館。
64.(1975)『プレイガイドジャーナル』(8月号)プレイガイドジャーナル社
65.(1978)『季刊チャンネルゼロ』(’78 Winter。第9号)チャンネルゼロ工房
66.(1972)『プレイガイドジャーナル』(9月号)プレイガイド・ジャーナル社
67.(1977)『季刊チャンネルゼロ』(’77 Autumn。第7号)チャンネルゼロ工房
68.(1978)『季刊チャンネルゼロ』(’78 Summer。第8号)チャンネルゼロ工房
69.(1975)『プレイガイドジャーナル』(11月号)プレイガイドジャーナル社
70.(1976)『MOB』(No.3)MOB企画海賊出版部
71.森むら舞(1979)『青い海のお墓 森むら舞作品集』チャンネルゼロ工房
72.(1983)『わんだ〜らんどデータ通信1号 1983・1〜6』(1)わんだ〜らんど
73.(1980)『ZOO』(第3号)ZOO
74.(1981)『ZOO』(第4号)ZOO
75.(1981)『ZOO』(第5号)ZOO
76.(1982)『ZOO』(第6号)ZOO
77.(1982)『ZOO』(FINISH。最後の号。)ZOO
78.(1975)『まんがファンフェスティバル’75 プログラムブック』atc企画サービス
79.(1976)『季刊チャンネルゼロ』(’76 Spring。第3号)チャンネルゼロ工房